続、応援の仕方について
こんばんは。筆者のクスノキです。
前回記事から少し間を空けてしまいましたが、それには二つの理由がありました。
一つ目は、前回記事において他者様からの反応、ご意見を頂戴してから記事の更新をしようと思ったから。
これについては本当にありがたい事にTwitterの方でいくつものご意見や感想を頂き、まずは嬉しかった気持ちと自分の疑問や考えにおける刺激にもなりました。こういった事が記事への執筆意欲や再考へのキッカケを拾い上げてくれるものなんだと感じたのは私にとって大きく意味を為すのです。
それは他人の考えに触れるという作業が決して自分の考えを変えるという方法としてではなく、煮詰まった自分の思考への再構築だったりとする潤滑油の役割を果たしてくれるといった所でしょうか。
「答えを求める」、という方程式を欲するのではなく、表現の言語化を試みるのならば「理由を廻す」といった過程を楽しむべく考え方です。
これが私の自分以外の意見や考えに触れる際に働かせる頭の中のスタンス、思考の立ち振る舞いといえます。
さて、私の変てこな持論をのたまうのはこれ位にしましょう。何でもない事をさも大げさに書くのはある種の罪ですから、ここはお詫びを。
前記事からの間を空けた理由の二つ目は、実を言うとロスト物語症候群を患ってしまっていたから。聞いたことないでしょうか?この病。
病名を知らないだけで誰しもがかかる危険性のある厄介なモノ。物語を追いかけていくその狭間の中間点で、突如として梯子を外された瞬間に発症するこの病。初期症状は空虚な解脱症状が起き、進行と共に意識の回復は見られるものの、物語への疑問をリフレインさせる問題行動を起こしかねない危険な状態が待っています。そうです、私はMSG観戦後に、時間差で発症していたのです。
しかし、残念ながらこのロスト物語症候群については経過観察を要しますので、次回の記事に持ち越しとなります。大事を取って安静にしておきましょう。
今回の記事はあくまで、前回の記事の続きです。
前記事では応援の仕方をテーマとした内容でした。恐縮ではありますが、未読の人はぜひ前記事の一読をお願いできたらと思います。
※前記事です➔皆様のご意見を拝聴したく - 新日本プロレスを物語る!
分かりやすい書き方にはなりましたが、いわゆる日本でのプロレス会場での応援、海外での応援風景、この対比で何か訴えるものがあるのではないかという風に読み取れたかもしれませんが、本音としては応援における感情のあり方です。
日常生活では社会通念、法律、常識、倫理感、それら全ては遵守するべくしてそうであり、これを担保として日常生活が安心安全に継続できるわけでしょう。その点においてのみ、余程のアウトローで無ければ国民全員に等しい総意があるはずです。
ただ私は非日常空間においてはどうなのか?
といった疑問がMSGの応援光景を目にし膨らんでしまいました。プロレスというおもちゃ箱が展開されるプロレス会場、そこは決して日常空間とは言えません、非日常空間という名づけで間違いはないでしょう。
海外のプロレスを観ても、ましてやWWEのレッスルマニア(アメリカにおけるプロレス大祭典)の会場光景を見ても正直あまり羨ましさは感じた事がありませんでした。しかし今回はアメリカの会場でもそこには新日本プロレスが在ったから、その感覚のせいでしょうね。
私の前記事に対し意見をくれたほとんどの方が日本での応援の在り方のままでいいというスタンスでした。特にスタンディングでの応援は邪魔になる、日本では会場マナーやルール化を更に進めていくべきという考えを書かれている方もおられ、私もその方がいいという場合もある事を現場で体験したのは事実です。更には、意見をくれた方々のほぼ全員が会場で不快な思いをしたことあるようです。
周囲のお喋り、声のボリューム、席でのスタンディング、ナンセンスな野次。色々あります、ですが感じ方は人それぞれな部分はあるのも一応明記しておかなければなりません。その調整は単純でないからこそ。
例えば複数人(仲間内、ファミリー、カップル)での観戦時に終始小声で喋らなければならないという認識は少し酷です。
席のスタンディングにおいても、例えば衝撃的な試合決着やメインイベントの入場の瞬間、その劇的なタイミングでさえも会場全員一律に着座しておくべき、これも僅かに違和感が残ります。
そして野次、これは前記事で書いた「粋」かどうかがジャッジの基準になりますので割愛しますが、要は盛り上げる為の装置としては自発的にファンが稼働させておくべきなので不必要の一言では断罪できません。それがマナーの範疇から逸脱したものであっても、絶対に要らないと切り捨てるかどうかは限りなく余地を残しておくべきでしょう。
プロレスの会場は非日常空間なんです、だって明らかに自然体とは言えませんよ。人が人をパワーボムですよ?人が人をパイルドライバーですよ?
受け身を取っているだのパフォーマンスだのショーだの、そんな事は百も承知です。それを全部飲み込んで、そして会場に足を踏み入れた瞬間にはその飲み込んだ全部を吐いて捨てていいはずなんです。夢中になるってそういう事でしょう。
日常の延長でしかないだなんで救いが無いとは思いませんか?
私が新日本プロレスを物語る!というタイトルをブログにつけたのは年齢も性別も無効化する程のファンタジーがプロレスには有っていいと願ったからかもしれません。日常と切り離していい空間、それを一体どこに見出すかは本人の趣味趣向に沿って手を出せばいいわけで、まずは踏み入れてみないと分かりませんよね。それがプロレスでなくてもいい、だけどプロレスには非日常の解放を飲み込んでくれる寛容がある。だから私はプロレスを選ぶ。
無邪気な子供のままでは居られない、膨大な見聞が自分を覆ってしまったから。色々な事を背負ってしまったから。
これが大人になったその時から始まる日常というやつです。
だけど、非日常のその数時間、人生のほんの瞬きにも満たないその時間くらい切り離してみてもいいのではないでしょうか。
誤解の無い様に補足しますが、非日常空間ではあたかも何やってもいいとは定義していませんし、不法行為は断じて許されません。
野生の原始の頃を除いたすべての人類史において、定められた一線はありますし形は違えど不文律に対する嫌悪はあって然るべき。
法か、神か、魂か。どれを基準に置いても背いた者への罰は執行を余儀なくされてもおかしくありません。善悪の二元論では語ることができず、柔軟であるかどうかは時代の背景が担うのですから。
話を戻します。
非日常空間での感情の表現、これについては「座っていても感情は表現できる」と意見に添えてくれた方がいました。これについては私も確かにそうだと頷いたのです。
応援の仕方についてのスタンス、感情の表現における自由、私はどこか単一的な捉え方をしてはいまいかと再考をさせられました。
制約の中でも楽しめるはず。枠組みを外さなければ楽しめないのか、そんな一石を投じられたような気がしました。スタンディングだけが感情の表現じゃない、発声だけが表現じゃない、まさにそうだと思います。
これを踏まえて、更にもうひとつご意見を紹介します。
他団体が行っているスタンディング興業などもあるというご意見です。これで差別化ができる、つまりは選択肢を設けるというやり方の提案だと思います。
あくまでも通常のシリーズ、大会とは別にスタンディングOK専用のプロレスイベント。これは効果ありそうですね。いつも座ったままの雰囲気とはまた違った楽しみ方を少なからず促してくれそうです。
ただ私の我儘を吐露してみると、通常のシリーズや大会から外れた興業、つまりは別枠扱いの試合を観戦しても楽しめる要素はたくさんありますがストーリーに乏しい。つまりは私の物語に対する感情が高揚しきるかどうかが少し怪しいのです。
これは個人的な我儘からの見地ですが、やはり選手の表情や雰囲気が単発的な試合ではあまり乗っていないように感じてしまい、私の中で感情のドキュメントが作れない。もちろん、プロレスを観戦するだけでその日は満足感を覚えますし、プロレス会場の雰囲気そのものが好きです。
自分の我儘と頂いた意見を参考にしますと、
現実的で具体的な提案すればこんな感じていかがでしょうか。チケットの棲み分け、これです。
やはりイベントの差別化をやってしまいますとちょっぴり白々しさを感じてしまった時に肝心のテンションが上がり切らなかったら元も子もありません。なのでチケットの種類分け。座席の種類を値段設定するだではなく、例えば着座オンリー専用座席と、スタンディングOK座席もしくは解放エリアとか。う~ん、難しいのかな。
どうなんでしょう、変ですかね?座席のエリアによって座ったり立ったり光景が違っていたら。
会場の一体化も盛り上がりには絶対的に重要ですから、周囲の雰囲気や光景も観戦テンションを左右してしまうし・・・。
あとは要所でのスタンディングと着座の棲み分け、これはどうでしょうか。選手の入場時と試合決着後のタイミングのみスタンディングOKとする、など。試合が始まったら「席にお座り下さい!着座をお願い致します!」というアナウンスを流す感じです。だけどフライングする人が絶対に出てくるかもしれない、、、カウント2.9で決着ついたと思って立ち上がる人が。。
いや、でもその光景ちょっと面白いかもしれないですね。カウント2.9でレフリーが転げまわる度に観客席でも勢い余って立ち上がったり座り直したり。その光景だけでまさにクライマックス感を存分に味わえる事でしょうね。
想像すると、応援に来ている家族なんかが子供と両親が一緒に立ち上がったり座り戻ったり。微笑ましい。年配の女性や男性も思わず口を開いて立ちあがり「なんだ2.9かぁ~!」これまた微笑ましい。
これには懸念もあります。
暗黙の強制と呼ぶべき現象です。分かりやすく例を挙げるとしますが、例えば音楽ライブやフェス。
“この歌の時には全員立ち上がらないといけない”、“この間奏時には横に揺れておかなきゃいけない”、“このタイミングで客はジャンプしなきゃいけない”、みたいな雰囲気が定番化しすぎて座って観ていたい人の居心地を阻害しうる全体圧です。
完全否定してるわけじゃないんです、そういう一体感は時には大事だと思います。それが楽しくてライブやフェスに行く人は多いはずです。だけど私の想うプロレス会場においては、強制圧に準ずる応援の仕方は好ましくありません、それはスタンディングでも着座でもいかなる感情表現にしたってです。
難解ですね~…、これはこうだと言い切れる事柄は少ないかもしれませんが、今後もプロレス会場での雰囲気作り、マナーの在り方、個人の自由と他人の公共性、どう変化したり定着したりするかを観ていきたいと思います。
こんな辺り触りの無い締め方で不甲斐ないです。首尾一貫に欠けた放物線の様な記事をいつも書いている気がします。どれだけの方々が私のブログを面白がって読んで頂けているかは未だ分かりませんが、どこかの誰かが「おっ、クスノキ更新してるじゃん」と数ミクロンのわくわくを抱いてくれると盲信しつつ、次の記事に意欲を宛がう事とします。
ちなみに、傍から見れば私は会場ではおとなしく静かです。別に斜に構えてるわけではなく周囲の人を気にして恥ずかしいだけなのです。盛り上げる為のヤジも全く思いつきませんし、内藤哲也のポーズやジェイ・ホワイトのポーズも一緒にやりたいのですが、いつもグッと堪えて冷静を装っています。あたかも興味が無いかのように。。
着座のままどこまで体現していいのか、どれほどの声を出していいかは自分の良心に従いサジ加減でいくしかありませんが、次回の会場観戦時「オカダ、もうこれ以上レインメーカーは打ち込まないでくれ~」とオカダがSANADAの腕を掴んだまま離さなかったら、私はそう声を出す事でしょう。
声のボリューム?もちろん照れもあるでしょうから抑え気味かもしれません。
皆さん、プロレス会場の雰囲気、その空間を今後も楽しみましょう。それは共有空間でもあり、あなただけの妄想を飲み込んでくれる異次元空間でもありますから。
物語に足を踏み入れれば、いつだってそれはあなたの頭の中に。
ここまでお読み頂きありがとうございました。
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