無沙汰ぶりです、
執筆者のザ・クスノキです。
友との離別。
これは私たちの現実世界でも 起こり得ることであります。しかし実際のところはと言うとある日突然予期せぬ 唐突な 別れ 仲違い といったものでは無く、あくまでもそれを認識するのにある程度時間を要するのがほとんどです。
そしてそれは人生のイベントと題するにはあまりにも程遠いもので、当の本人達はそれに気付くのがとても不確かな状態を持続させつつ“気づけばいつにまにやら..”といった感じでしかありません。皆さんも自分の人生において心当たりはいくつかあるのではないでしょうか。
生活環境の変化、それぞれが取り巻く人間関係への立ち位置の変化、仕事、家族、収入、成功した者と落ちぶれた者。要因は様々ですし、離別を引き起こすトリガーはいついかなる時もその可能性をゼロにはしてくれません。人が生きる上で自分にとっての「友」とはどんな相手を指すのか?そしてそれが相手をどのように合致していくのか?
双方の考え方の相違あれば成り立たず、一方的な把握では決して成立しにくいものです。たとてその関係性を言語化できようが無意識であろうとも。
何が言いたいのかと言いますと、日常を生きる私達の生活の日々では、「友人との離別」という一大事な事態なはずものが、至って簡単に流されていってしまうという事。連絡を取るのをやめた事、会うのを今後一切やめた事、かつて友だと思っていた相手との離別を意識し始めたとしてもほとんどの人がその思いをわざわざ相手にその瞬間に直接伝えたりはしないはずです。
それはなぜか?
一見それは変な言い方かもしれませんが、それはこういう事なんだろうと思います。
劇的になるのが嫌だから!!
そうなんです、ほとんどの人は劇的になるのを嫌がります。なぜなら劇的はとてつもないパワーを用するからです。そのパワーとはいわば感情です。劇的が待ち受けているのは紛れもなく感情の抽出なのです。
人が日常の日々で嫌うのは時間を取られる事と感情を乱される事。
劇的はそれらを断然にして掴みにくるわけです。有無を言わさない感情の右往左往、失敗すれば永遠の別れを予感させられ、場合によっては出口の見えぬ袋小路で後悔という念に囚われて生かされるやもしれません。
し・か・し、、
プロレスにおける離別とは劇的です。
プロレスというコンテンツは劇的そのものです。プロレスにおいて“友との離別”なんてものが起きた時には劇的でなかればそれはもはや離別とは言えません。
記事の終盤でやっと本題が見えてくる、これが私が思う劇的な文章スタイル。
人が生きる時間の中で全てを劇的にする事は難しいかもしれませんが、せめて自分にとっての劇的は何かしら持ち合わせていたいものです。
それが“友との離別”という物語の章を飾る題目ならば絶対です。
苦楽を共にした友。
YOHとSHO、いやここは小松と田中と呼ばせて下さい。
お互いに同じ目標と夢を分かち合い、日の当たらぬ雑用の日々を抜け、スポットライトに照らされながらタッグパートーナーとして肩を並ばせ立つセルリアンブルーのリング。新日本プロレスで活躍するならばいかなる物語を選択するのか、あるいは偶然に見つかった選択肢をどう活かすか。偶然も必然も飲み込んで、プロレスラーとしての物語にどんな道筋をつけるかがプロレスの醍醐味です。
小松と田中は海外修行の時を経て、帰国した後にタッグという二人のストーリーを選択しました。でもそれは、いつか起こりうる今回の“離別”というストーリーを選んだ事と同義なのです。なぜこれがセットなのか?もちろんその理由はプロレスは劇的でなければならないから。ここまで来ると記事の中身が劇的の反復状態です。
私は以前に過去の記事の中で、小松洋平の物語シリーズとしていくつか執筆しました。もしよければなかなか面白いと思いますのでこれらもぜひ読んでもらえたら嬉しいです。
今回のSHOとYOHの離別により、田中ことSHOはBULLETCULBへ電撃加入。小松ことYOHはそのSHOとの遺恨マッチさながらの雰囲気を纏い試合に臨みましたが、SHOの離別行動の歯止めを利かすことができず敗れ意気消沈。
今回の劇的な離別で私が最も印象深かった事は、SHOの裏切り行動うんぬんよりも実はYOHの表情の一点です。奇しくも今回の二人の離別がYOHの持つ本来の特性が引き出されたとも見て取れます。入場時のYOHの怒りと悲哀が織り混じった表情はとても価値があるものだと感じました。
もしかしたら、小松ことYOH選手はこの悲哀に満ちた瞬間こそ最もプロレスラーとして色気を漂わす人物なのかもしれません。この発見は少し意外だったかも。クレバーでスマートな印象だった人間が、こんなにも悲哀に打ちひしがれてる姿に魅力を感じさせるというのはなかなかよくある発見ではありませんよ。
感情はどれも価値があるものです、喜びや笑いといった陽の感情だけが人生の意味を為すものではありません。もしも人生を物語の集大成に例えるのならば、そこには悲哀や怒りといった負の感情も必要不可欠であり、そこから逃げるという生き方はまさに劇的から逃げるという事でもあるのかもしれません。
二人が友のままタッグを結成し、友として離別に至る。そこでYOHが見せた悲哀の表情はまさに劇的から逃げなかったのです。悲哀から恐れず、怒りから目を背けない。
ここにこそ「友」とは何なのか?というキーになるのです。
次回の記事ではこの小松と田中の劇的な離別、そしてYOHが体現する悲哀と怒りの感情をさらに拡大しつつ「友」につい考えていきたいと思います。
(※プロレスという物語を私達の日常という物語にリンクさせる、こんな楽しみ方をこの記事では今後もちょくちょく試みていきたいと思います。ぜひ、読んでくれた方も肩の力を抜きつつ一緒に楽しんでみて下さい。)
読んで頂き本当に嬉しいです。
もし当ブログ記事が少しでも面白いなと思って頂けたら、下の画像をワンクリックだけ応援を宜しくお願いします。
https://blog.with2.net/link/?id=1996597
↑↑↑