執筆者のザ・クスノキです。
前回の記事に引き続き今回の内容も「友」について書いていこうと思います。
よくネットで見かけますが有名人が語る対人関係についての啓蒙的な発言の中で、「〇〇な人とは関わるな」や「〇〇な人とは縁を切れ」などがSNSや切り抜き動画等で挙げられていたりします。
今や一般人から芸能人から著名人に至るまでいくらでも自身の考えを発信できる状況であり、私達はその中に自ら身を投じているのです。
最近、ある有名人がネット配信の中で「友」について語っている部分を切り取られ、いつもの如く瞬く間に拡散され私もそれを目にする事になったのですが、その内容は「こういう人とは友達になるな」といった啓蒙的な語りでした。
印象的だったのは、
・「自分の正義感を押し付けてくる」
・「自分の意見を過剰に投げかけてくる」
・「すぐに感情を顔に出す」
この部分があれば友達にならない方がいい、つまりはそういう人には接近しない方が良いとの事。
私はいつもこういった文言を見る度に思うのですが、他人と関わる時にその相手と仲良くなれるかどうか、友達になりたいと思うかどうか、それらの答えはその相手としっかりと関わり切ったかどうかにあるはずです。
そうです、関わりきらなければ友になれるかどうかの最終的判断は下せない。
自分にとってちゃんと相手と関わり切ってもいないにも関わらず「〇〇な人とは友達になるな」という条件を最初から突き付けるやり方はどうにも私には腑に落ちません。
まず"関わり切る”とはどういう意味なのか?
私の持論にはなってしまいますが、それは受け切るという意味を指します。
要は相手の本音だったり感情をしっかりと受け切った上でそれがただのエゴなのか、それは本当に押し付けでしかないのか、判断は受け切ったからこそで出来るものです。
一見ただの正義感に見えても、それに対して逃げたり避けたりせず受けていく内に”相手の本音”が見えてきたり、相手の感情が痛々しくともそれはこちらを思うが上の優しさなのかもしれないという受切った後に至る理解だって。
ここで大事なのは一見そうだとしても...という所にあるのです。
さて、ここでプロレスの受身に転換してみましょう。
同じドロップキックの技であっても使う選手によって打点の高さや着地のモーションは全く違う形になっており、その場飛びのドロップキックもあればロープを使ってからの反動を加えてからのドロップキック、スワンダイブ式や低空式のドロップキックなど様々。
一見では判断できません、受けた後にそれは良いか悪いか評価される。
そして大事なはもう一つ。
自分が受けたら相手も受けなければなりません。
別にプロレスは一方的に耐え忍ぶエンターテイメントではありません、両方が受身を強いられるこその勝負です。
更にプロレスの面白い所は技を受ける側の選手によってもその同じであるはずのドロップキックが同じには見えなかったりするわけです。
胸板を差し出して真正面から受ける選手もいれば、タイミングを見誤り顔面にモロに入れられそのまま転がるようにリングに倒れる選手も。自分と相手の距離感、相性、双方の技量、要因を挙げていけばキリがありませんがそれもまた受け切った先に見えてくる。
ではこれを「友」とは何かに転換しましょう。
友とは、受身です。
少し文言の行間を端折り過ぎましたね。
全くの他人だった存在と対峙した瞬間から私達は人間関係の物語の可能性を探ります。そしてその中でも「友」という物語が生まれたなら、そのストーリーはどこまで続くのか。その可能性は切り抜き動画やSNSでパッと目に入った啓蒙的な文言を知った程度では可能性を0から1に上げる事すらできっこない。
相手の技(本音の気持ちや感情が乗った言葉や行動)を自分の生身(心)で受け切り、そして相手も自分の技をがっちりと生身で受け切る。
受け切った上でもしもそこで"もう関わらない”という選択をしたとしても、その人にとっての"関わり切った"になるのではないでしょうか。であればそれもまた人間関係という物語のあるべき姿です。
関わり切ってもいないのに、「〇〇な人」だとどうしてそんな判断が下せるのでしょう。
一見同じ技に見えても受け切ってみなければその技がどうかは分からない、相手が自分の技を受け切ってくれなければ受身がどうだったかなんて分からない。分かり得ないのです。
回りくどく言わず、言います。
「友」とはお互いに受身を取る関係を指すのではないでしょうか。
このコロナ渦のせいで私達の生活はマスクで表情を覆わなけれないけなくなりました。でも思いを言語化し伝える事が出来る、そして制限はあるにせよ行動でも示せる。
どんなに圧迫感がある社会になろうとも、受身の自粛はもっての他。
むしろ受身を取って取って取りまくるべきなのです。
もちろん、受身と言えどもその度に擦り傷や打ち身による痛みは伴うでしょう。
でもそれで良い、受身を取ったからこそ分かる痛み。
受身を取り合った間柄であるからこそ別れの辛さが心の芯に沁みるのです。
いつか離別があるかもしれない、それでも他人と関わる時に"この相手なら受身を取り合ってみたい"という人間を自分で選択したのならば、出来る限り関わり切ってから判断しようと私は心がけるように生きる事にしました。
でもそんな私でもいつしか今まで関わった人から私の知らぬ間に「〇〇な人には関わるな」認定をされていたかもしれません。でもそれは私の受身が下手だったのか、それとも相手が受身をしなかったからか。。。もしかしたら、もしかしたらです。
今回のSHOとYOHは友という関係から遂に離別へと至ってしまいました。
友との離別、彼らには必然の物語だったのか。
離別に伴う遺恨マッチにおいて、二人は今までに無い程にその感情を込めて受け切りました。
試合終盤のSHOによるパイプ椅子の脳天直下振り下ろしを受けきったYOH。
観てる我々からすればこんなにも辛く悲しい場面。でも劇的でした。
離別とは劇的なものです(※前回記事参照)
皆さん、自分が選んだ「友」とは本当に受身を取り合っていますか?
そして過去に「友」との離別を選んだ方は本当にそれは受け切った上での選択ですか?
関わり切るなら受身を取るしかない、自分も。相手も。
「〇〇な人には関わらない」では無く、
せめて「関わり切ったからもう関わらない」であるべきではないでしょうか。
読んで頂き本当に嬉しいです。
もし当ブログ記事が少しでも面白いなと思って頂けたら、下の画像をワンクリックだけ応援を宜しくお願いします。
https://blog.with2.net/link/?id=1996597
↑↑↑
私のtwitterをフォローして下さる場合はこちらです