新日本プロレスを物語る!

新日本プロレスという最高の『物語』、それは必然と偶然が織り成す感情のドキュメント!主役は、レスラー全員です。

新日本プロレスという最高の『物語』、それは必然と偶然が織り成す感情のドキュメント!
主役は、レスラー全員です。

後編 後戻りのできない物語を選んだ男、飯塚高史

前回の記事はこちら

www.njpwstory.online

 

ここからが後編です。

 

飯塚のヒールキャラのスタイルの特徴といえば、なんと言っても喋らないというやり方。レスラーとして自己表現の最たる手段を捨てるというのは、これは大きな覚悟がいります。

 

善良な魂を失い、意思疎通がほぼできないというキャラ選択。残るは試合内容で勝負するしかない!と思いきや、怨念坊主の試合構成は噛みつきとラフ殺法が九割を占めます。レスラーとしての技の多様性を一切排除してしまうというのは、リング上での立ち回りにかなりの制限がかかってしまう可能性が高いはず(しかし飯塚の場合、これが功を奏し、昔自分が必殺技にしていたスリーパーをたま~に出すだけで会場が盛り上がるという引出を手に入れました。スリーパーって本来は基本中の基本技ですが、これで盛り上がるってスゴイ事ですよね)。

それでも飯塚は頑なにこのヒールキャラを崩さずそのプロレスを我々観る側に提供し続けてくれました。

 

しかしこの言葉を捨てる、それから自分の技構成を極端に絞る というやり方については理由があります。たぶん。

それは飯塚がまだヒールになる前のお話から繋げる必要があります。

 

f:id:njpstory:20190221212720j:plain



飯塚の新日本入門は1985年です、生え抜きの新日レスラーであり一度だって他団体になびいた事はありません。世代的には闘魂三銃士(橋本・蝶野・武藤)の一つ下の世代辺りでしょうか。

 

彼は新日本プロレス内でのレスリン技術の評価は高く、若手の頃にサンボ技術の修行も行ったりと、いわゆる実力派です。正統派として正規軍本隊での活躍を早くから期待されていましたが、いかんせん飯塚は自己発信力のセンスが乏しかったのです。顔も精悍、体も良い、まさにベビーフェイスの要素は充分だった、しかしいかんせん自己表現が下手でした。マイクアピールも下手、バックステージでも機転がきかない、要するに口下手です。しかもちょっと天然要素も目立ったしまっていました※飯塚が喋らないという選択をした理由はまさにこれが起因だったのでしょうね

 

f:id:njpstory:20190221185350j:plain

闘魂三銃士に噛みつく形で自己アピールした時期が一瞬あったのですが、やはり本人の地味さが拭いきれず会社側も飯塚の売り出しに消極的になっていったのです。チャンスを逃した飯塚は若きスター街道を歩む未来図を自分の手で描く事はできませんでした。しかし実力派としての評価は保っており、道場でのコーチも務める等、練習への姿勢、プロレスラーとしての身体の鍛錬に関して非常に真面目で熱心な男だったのは有名です。

 

そして地味なレスラーのまま、時は流れます。

 

1999~2000年頃、まさに新日本が総合格闘技というジャンルに侵され始めた頃。

この時、新日本の強さの象徴であった破壊王・橋本真也が柔道界から侵攻してきた柔道王・小川直也によって苦渋を舐めさせられるというショッキングな事件が立て続けに起きるのです。

有名な1.4事変については一切省きますが、とにかく新日本はこの小川によってかき乱され、新日本内部での不協和音も相まってまさにドロ沼化の一途を辿り始めます。

しかし!こんなゴタゴタな苦境の中、一人の男が大ブレイクを起こします。それが飯塚です。彼の本来評価されていた実力派な部分と、異ジャンルからの侵攻にどうにか一矢報いてくれという当時の新日本ファンからのニーズが見事に一致。まさに必然と偶然の瞬間でした。

 

f:id:njpstory:20190221185400j:plain

この時はレスラーの自己発信力やアピールの個性等よりも、とにかく「強さ」が見たい!格闘家にプロレスラーが勝つ試合が見たいという需要が異常に高かったのです。

 

この時に生まれた飯塚の「魔性のスリーパー」というネーミング、ただのスリーパーホールドですが、一瞬で仕留める一撃必殺的な怖い技として飯塚のスリーパーには評されたわけですね。

 

それにこの頃は、鬼のように強く怖い飯塚の姿は決してヒールではなく正規軍のど真ん中として輝きました。そうです、本当にこの時期は飯塚の頼もしさは観る側として高揚したものです。

 

この頃の栄光が、今でも飯塚のたま~に出すスリーパーには宿っているからこそ盛り上がるわけですね。ただのスリーパーホールドでも、歴史の詰まった技は一生モノの技になるお手本のようなスタイルだと思います。すごいな、飯塚コーチは。

f:id:njpstory:20190221212805j:plain

ただ、この栄光の終わりはあまりにも早かったのです。

 

それは2001年、長井満也選手との試合での事。試合中、コーナーに追い込んだ飯塚に、長井選手の激しいミドルキックが放たれるのですが、これが思いっきり飯塚のアゴに入ってしまいます。アゴへの打撃には受け身も何もあったもんじゃありません、それはただの破壊攻撃となっていまいます。その一撃で失神、しかも非常に危険な堕ち方をした飯塚を当時見た私も、これはマズイ・・、と青ざめました。

正直飯塚のあの倒れ方は再起不能な崩れ方では!?と思ったからです。

案の定ここで飯塚は戦線離脱、負傷により長期欠場へ。

 

この後復帰するわけですが、2008年の天山との友情タッグまで長い期間、飯塚に大きなスポットがあたる事はありませんでした。あの負傷後からの飯塚は、以前と同じ動きはできず、非常に精細さを欠く状態になってしまっていました

 

あのリング上での事故は、もしかしたら飯塚にとって戦う上での不安や恐怖、トラウマを植え付けられてしまったのではないでしょうか。

 

そう、以前の「実力派の飯塚」を体現できない自分にどんどん気づかされていく、負傷の後遺症や精神的なダメージ、それらが飯塚のスタイルを変える事への要因として高まっていく。後戻りできない選択をするしかない。言葉を排除し、スタイルも完全に変える。

 

クレイジー坊主への変貌、改革、そしてヒールという覚悟。

口下手で地味で、不器用だった男は、善良な魂と引き換えに完全無欠のヒール道を我が道と決めたのです。

 

f:id:njpstory:20190207015527j:plain

  今夜、ヒールの歴史にまた一人、偉大な男の名が刻まれます。

 

 

 f:id:njpstory:20190225021341j:plain

イラストの作者 マメ山様 
http://twitter.com/mameyama0130

このイラスト最高です、怖いけどキュート!

 

 

私の記事を読んで下さり恐縮です。

面白いなと思ってもらえたら応援宜しくお願いします

プロレス人気ブログランキングはこちらでチェック

f:id:njpstory:20190329232341j:plain

f:id:njpstory:20190329232417g:plain

 

 

www.njpwstory.online

www.njpwstory.online

 

f:id:njpstory:20190317225426j:plain

最新プロレス人気blogランキングはこちらで