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皆さんは自分の「死」について普段どれだけ意識して生きていますか?
お久しぶりです、筆者のザ・クスノキです。
冒頭から何やら重苦しい一文で始まってしまいましたが、重い雰囲気とは裏腹に私の感情は非常に熱いものを今まさに噴出しそうな程です。
書かなければなりません。絶対に書かなければならない、今回の記事更新は私にとってある意味で「生還」を期する執筆です。
おかしな話ですね、冒頭では「死」という文字を使い、次の文脈では「生還」という文字を使ってしまう。でもこれは生と死がいつだって共同たる所以を背負う人間のあがなえぬ命のキラめきなのでしょう。
前回の記事からしばし日にちが空いてしまったので今回の記事は私はまだ引き続き「生きてます」というご報告、そしてまたこのブログ執筆に戻ってきた生還の発起と捉えて頂きたく思います。
先日、新日本プロレスにおいてある選手が引退を致しました。
その選手は引退試合を終えた後、あまりにも物語的な言葉を発してくれました。
“死ぬまでプロレスラーです”
彼の名は中西学という男。
新日本プロレスという感情のドラマにおいて、彼は自身の物語を死ぬまで背負う覚悟でその胸に宿したのでした。
引退は結末を意味するモノでは決して無く、中西学が紡ぐ「死ぬまでプロレスラー」という物語は新たなる章へ向かう一つの区切り。人はストーリーラインを自分の意志で伸ばす事ができ、自分の手と他人の手が交差しながらも到達点を模索し続けるのでしょう。
さあ、ここで冒頭で私が書いた一文を再度リピートしてもらえないでしょうか。
自分の「死」を意識する時、人は自分が何者でありたいかを己に乞うはずです。自分の願望が今まさに形に無くとも、あるいは現在進行形であろうとも、人は最期の時に自分が何者で「死」を迎えたいか。
確固たる証明なのか、それとも単なる寂しさの拒絶か。
他人と自分。己と他者。
問うても問うても答えを見出せない者だっているはずです。いやむしろ多いはず。
誰だって曖昧でありながらも何者にもなれぬ不安を払拭できず、しかしながら何者であるかの確定要素は来る日来る日も時間を削る事でしか積み上げていけないとしばし悟ってしまう。
私は何も凡人と非凡の話をしているのではありません。この生と死は至極平等であるからです。
では中西学が自身の「死」の瞬間に何者を選んだのか。
“プロレスラーになりたくて”
中西学という男の口からはあまりにも心が打たれる言葉しかない。子供の時に始めたレスリング。それもいつかプロレスラーになる為の下地を作る理由でした。
実直で熱心で一途な男はそのレスリングでなんとオリンピックという舞台に立ってしまう。でもそれは全てプロレスという物語の序章を華々しく飾る為。
プロレスラーに憧れ、プロレスが好きで好きで仕方なかった。
『アルゼンチンバックブリーカー』
『ヘラクレスカッター』
『マッケンロー』
『大・中西ジャーマン』
挙句の果てには『上からドン!』。
こんなにもプロレスラーらしい技名のオンパレードはワクワク感の塊でしかありません。プロレスの持つワクワク感を根こそぎかっさらうかの様な存在。
この男は正真正銘のプロレスラーであり、プロレスの代名詞と言えるでしょう。
彼は人生の終幕のその時まで、「プロレスラーである者」を己に課したのです。
いや、課したという言い方は語弊があるかもしれませんね。
好きだから、大切にしたいから。
自分がそうであり続けたいから。
課したのではく、それが自然な選択であり、自分が生きていく上で「死」を意識するならば単純明快な答えだったのでしょう。
生き様という言葉があります。
それは言い換えれば感情の激動でもあり、そしてある時は物語の強弱でもあるのです。
たった数年じゃ培われない。半端な心構えでは成しえない。
でも彼はその規格外の肉体と、不器用な表現で生き様の全てを「プロレスラーである者」に費やしたはず。その区切りの集大成を飾ってくれた現役ラストマッチで魅せた生き様の表現。
観た私達の目に涙は拭いきれませんでした。
試合の決着が訪れる頃、中西学は何を私達に魅せてくれたか。
まさに生き様です、プロレスラーである者にとっての約束とも言えます。相手の技を受けきる事。暗黙の勝負。技を受ける事での強さと弱さの対比。魂の忍耐。
よけない、逃げない、怯えない。
過去の大怪我による後遺症からかほとんど首が硬直気味な状態になってしまった中西学にとって、受身を取るという最低限の事でさえも私達は安心して観ていられない。
でも彼は引きずられながらでも受けた。
精神はどんな状態だったのだろうか。肉体の悲鳴はどれだけ彼に不安をもたらしたのか。選手としての意地と誇りがハートを絶対に鳴り止ませなかったのだろう。
受け切った。リングに大の字させられても、技の全てを受け切ったのです。
後藤洋央紀のGTR、
飯伏幸太のカミゴエ、
オカダ・カズチカのレインメーカー、
そして棚橋弘至のハイフライ・フロー
四人のレスラー達から強烈な技を放たれ、打たれ、食らわされ。
リングの中央で大の字に横たわる男の姿がそこにはありました。試合が終わった瞬間は劇的な余韻とじんわりと広がる様に。
あとほんの数秒でもいい、中西学がリング上に居る姿を見ていたい、私の鼓動は強くゆっくり波打っていました。
だけど、中西選手は目を閉じ、まるで安らぎを覚えた様な表情をしていたのです。プロレスの体現。
技を受け切り倒された人間が見せるこの静かなるメッセージ。
これもまたプロレスラーの姿なんだと。
そして、倒され後に立ち上がらなければならない場面が訪れます。言うなればこの場面が最も重要な所でもあります。
選手がこれでもかと負け姿をさらし、更に敗者としての立ち姿は選手の物語がこれまでどんなものだったのか自ずと出てしまうもの。
素晴らしい。
素晴らしいの一言で片づけたくは無いのですが、素晴らしすぎるこのシーンに他のどの賛辞たる言葉よりも最善のチョイスです。
歯を食いしばるという表現がこれ程までに発揮された表情があるでしょうか。いくら技を受け切れたとはいえ、やはり悔しいに決まってますよ。
達成感?そんな馬鹿な。中西学はそんな半端な男じゃありません。だから引退試合のその時でさえ悔しい感情をゼロには出来なかったのでしょう。
表情が物語る。
まさにこれに尽きます。
次回以降も中西学を書き綴る覚悟です。
当然ですね、単発記事で消費する様な楽な内容ではありません。まだまだ語るべき内容が山ほどあるのです、この中西学というプロレスラーにスポットを当てるならば。
余談で申し訳無いのですが、、
最後にもう少しだけ。
自分が最期のその時に何者でありたいか、これはそこまで小難しい話では本当は無いのだと思います。別に大そうな何かを成し遂げた人間にしか名づけられない称号では全然無く、もっとシンプルに。もっと素直な観点で充分なのです。
優しいあなたは「優しい者」に。真面目なキミは「真面目である者」に。
そして愛に生きる人は「愛を乞う者」として物語を完結させればいいのだと私は思う次第です。
それでは私は何者でありたいか・・・。
私は「言葉を大事にする者」でありたいのです。
死を迎えるその時まで。
私には言葉しか持ち合わせていません。
誰かの何かによって私の感性は湧き上がり、言葉でよりそれらを魅力的にしてみたく、そしてより面白くしてみたい。
誰かの感情も、誰かの人生も、誰かの物語も。
だから自分が好きなプロレスを言葉でもっと光らせてみたい。
自分なりに、自分で産む言葉に賭けながら。
次の更新記事でも言葉でプロレスと敬愛すべき選手達の物語性を熱烈に執筆させて頂きます。
◆ここまで読んで下さり嬉しいです。
次回記事更新にて、また覗きに来て下さいね。
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※なぜこんなにも中西学に私の思い入れが強いか、その理由は前記事で説明しております! ↓↓↓
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