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こんばんは、執筆者のザ・クスノキです。
先日、とある映画を観ました。
その映画を観てから数日経った今もなお、余韻が残っています。
今回の記事はプロレスの話ど真ん中とは言えないかもしれません、ですが無論プロレスに無関係な話をする訳ではありませんし映画の話題を趣旨とするつもりもありません。
ただ、その映画の中でのあるセリフが、やけに私の中で消えないのです。
“自分がいるのかわからなかった”
確かこんな様なセリフだった、気が。
正確な一字一句ではありませんが、要は自分の存在意義への疑問を呈した台詞です。自分が存在している実感、意味、価値を見い出せないが為に出た言葉。
皆さんはどうですか?
自分が自分の生きる世界において幸福を得られているとはっきりと言えますか?
自分の取り巻く環境、人間関係において自分の必要性が確実に有り続けているという自信を持っていますか?
別にこの記事を読んで頂いている方々をまるで試すかのような意図はありませんし、ましてや皆様の人生の安寧を脅かしたい悪巧みも毛頭ありません。
安心して下さい、ただの記事です。
引き続き、ただ面白がって目を通して下さればそれで良いのです。
私は自分の人生において、度々頭をよぎる事があります。大人になってからはそれがより増えたのです。それは自分への不信です。他人を信じれば時に裏切られるとはよく言いますが、これは自分を信じる場合でもなんら変わり無く、自分を信じても充分に裏切られる。
自分が自分である為には一体どちらを信じればいいのか?
他人か?自分か?
どちらを優先すれば自分の人生において自分がより良くなれるのか。
年齢や経験の経過により、人によっては仕事の評価が自分の証明価値となり、人によっては家庭を作り子を育てる役割を果たす事で自分の存在意義を抱いていると思います。
そして、あとは趣味もそうでしょう。自分の好きな事に没頭するという行為は一種の癒しであり、ある種の継続的な誤魔化しにもなります。
しかし、しかしですね。
その仕事の評価が、本当にあなたを“自分はいるのかわからない”とは絶対に思わせない物だと言い切れますか?
その築いた家庭が、本当にあなたを“自分はいるのかわからない”とは絶対に思わせない物だと言い切れますか?
そのこよなく愛する趣味が、本当に・・・・(以下同文です)
他人を信じれば言い切れるのか。自分を信じれば言い切れるのか。
私はつくづく考えてしまいます、自分の人生において自信を持って自分の世界を構築できているのだろうか、と。
その度に喪失感を覚え、心の底から自分が嫌になり、その原因究明ともなってくると必ず最終的には他人への不信と繋がっていく始末。
あまりにネガティブな文脈の様相が並び、いささか心配をかけてしまうかもしれませんが、大丈夫です、これも含めて私です。私の感情は後ろを向く時でさえ熱を込めるのです。
自分がいるのかわからない、こんな難題に取りつかれてしまったならばどうすればいいのでしょうか。これを抱えてまま生きていくにはあまりにも過酷な命題。
お待たせしました、ここでやっとプロレスの話題を引っ張ってきます。
前回記事で私は飯伏幸太の話題に触れました。
タイムリーな話題にしか興味が無い方にとっては、何を今更そんな話題を出してくるんだと思われた記事内容だったかもしれません。それゆえ、あまりこの話題を今書くのはどうなんだろうという疑心が邪魔し、不安もありつつ前回記事では実はわりと消化不良気味で文を終えたというのが本音だったのです。
(そういえば、前回記事に対してとても感情のこもったコメントを下さった方、本当に嬉しかったです。)
どこが消化不良だったかといえば、やはり去年の飯伏幸太とケニーオメガの二人の関係性にもう少し触れたかった所。
二人の関係性において、やはり一番のターニングポイントは飯伏幸太側の心境の面持ちにあった部分なのでしょう。なのでしょう、と偉そうに書いていますが勿論予想や憶測の範疇でしかない事はご了承願います。
分かりやすく構図として正すならば、去年の二人の再会劇が単純なゴールデンラヴァーの復活だけであったならばもっと違う物語の方向性も有り得たかもしれず、そこを嘆きつつもそこがいいというジレンマは最高の切なさです。
問題は、飯伏とケニーのやっとの再会時に二人だけの世界観ではもはや無かった事でした。そう、ケニーオメガを取り巻く環境、要はELITEです。
その中でもヤングバックスの二人。
この二人が既にケニーの物語の側近に存在してしまった事は飯伏・ケニーの再会物語を必然的に歪めてしまった・・・。
それゆえ、ケニーと再会する事で飯伏はバレットクラブやELITE勢へのスタンスも考えなくてはならず、本来ならば飯伏の立ち回りは非常に重要な指針にもなり得たのですが結果的には飯伏幸太の物語構築は宙ぶらりんな状態を露呈する事に。
もっとシンプルでよかったはず。
しかし、ケニーオメガ特有のエゴイズムや新日本プロレスにおけるバレットクラブとELITEの立ち位置等のパワーバランスがそれを歪める結果に。
意図せずか、意図してか。
そこは不透明にするのが一番のプロレス的良識です。
飯伏幸太は段々と思ったのかもしれません、
“自分がいるのかわからない”
残酷な言い方をしましょう、愛をたっぷりと込めて残酷に。
最初だけだった。
はっきりと私はそう感じています。
飯伏の救出劇から二人の再会、からのゴールデンラヴァー復活。この最初のインパクトだけでした、飯伏幸太の存在意義が確実に光っていたのは。
そこに飯伏幸太がいる意味、飯伏幸太がケニーオメガの横に居る実感、二人の物語における飯伏幸太の存在証明。本当に最初だけでした。
徐々に、徐々に、違和感が産まれくる私達の感情。
なぜ飯伏幸太はELITE達と居るの?何の為に??
ケニーオメガと飯伏幸太の二人の物語がどうみても二人だけの世界観に浸らせてもらえない状況、そこは本当に飯伏幸太が居なければ成り立たない物語だったのか。
疑問は上手い具合に変換されないままケニーの物語ばかりが進行は早める状態に。事態はじわりじわりと悪化の影を見せる様に、、、、
ケニーの飯伏への感情に嘘は無かったとしても、飯伏の感情の全てを読めなかった誤算がそこにはあり、そして飯伏幸太自身も自分の中に“自分が居るのかわからない”という不信感を感じずにはいられなくなった、これが二人の物語の顛末だった気がしてならないのです。
ケニー・飯伏両名のファンの方々、こいつは一体何を勝手な事を言ってるんだと笑い飛ばしてもらえたら幸いです。
やっぱり書き足りませんね、これだけ書いてみても満たされない二人の選手の物語。やはり切ない。切なさとは決して満たされぬ欠落の美。
私はもう一度ケニーオメガが還ってくる物語を心待ちにしています。
その物語は二人の続きの物語になるのか、それとも・・・・。
飯伏幸太との二度目の再会は、さて、いつになるでしょうか。そんなに先のお話ではないかもしれませんよ。
今回はここで筆を置かせて下さい、最後まで記事を読んで頂けて本当にありがとうございました。
◆次回記事更新にて、また覗きに来て下さいね。
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